みんなのレッスン日記
ミルク付き

自粛中だから出来たこと⒈読む

4月からの緊急事態宣言の対処に追われ、特に4月はなかなか大変だったが、5月を半ば過ぎてからは少しばかり気持ちの上でも時間的にも少し落ち着いた。

 

久しぶりに本を読んでみた。

カミュの「ペスト」。

 

なぜこの作品か、というと、

単に某テレビ局の番宣でチラッと見たから。

(その番組自体は見ていない。)

 

カミュ本人や「不条理」については専門家ではないし、筋などはここでくどくど書くこともないと思う。

読書は難しい。登山と同じく、行程を急げば、素晴らしい景色を素通りするし、気まぐれでふと立ち止まった足元の繊細な雑草の立ち姿に心を奪われることもある。

それが長大で深い主張がある作品であればあるほど時間が必要だ。

そして、現代を生きる我々には時間がない。

 

この時期にたまたまこの作品を読めたことは、自分にとって幸運なことで、結果的にいくつもの気付きがあったのかな、と思う。

カミュが素晴らしい作家であること、そして翻訳者である宮崎峯雄氏による洗練された言葉と文章構造の選択(むしろ言葉そのものの影響はこちらの方が直接的で大きいかも。)、そしてわずかながら、そのことに自分が気付けた可能性。

 

楽譜との付き合い方にも共通して、ある曲をどのような手順で練習しても、それを自分の曲にしようとしたり、新たな発見に至るためには、最終的には音一つ一つまでバラして落とし込んで、手触りで確認していく作業になる。それを組み立てて、また分解して。繰り返し。

もちろん仕事は時間に追われないと成り立たないが、自身の技術やセンスを磨き自身を超えていくためには、時間を永久に超えて追っていくことになる。

 

いずれにせよ、今回最後まで多少の注意を払って読むことができたことに若干の安堵を覚えたし、逆に言えば、この何年か、まともに「読む」ことをしていなかったのだな、とも実感させられた。

もちろん、仕事のうえで音楽の専門書は目を通すし、ニュースやビジネスについての欲しい情報は自然と目にする。ただそれは「読んで」いるのではなく。

目に入った途端、手早く処理しただけ。

つまみ喰い。

 

それらの慣習と違うことは、順序は混沌としてしまうが羅列させると以下のようなポイントか。

 

⒈言葉のプロフェッショナルであり、それ以上にストーリーの優秀な設計者、その思想の創造者であるプロフェッショナルの作品を読むこと。

⒉自分が求める情報を得る目的と、読むことそのものを求めることの違い。

⒊速読(悪く言えば読んでいない状態)ではなく、わずかな時間でもモラトリウム状態に自身を置き、書き手の選んだ言葉やセンテンスの構造そのものに触れて、言葉自体の発音や文字の丸みまで時間の許す限り楽しむ感覚。

 

 

おそらく、ブログの頻度が減り、またそれに反比例して写真でスペースを稼ぐようになったのは、ある時点で読むことをやめてから自分の中に貯めていた言語力を使い果たしてしまい、書くことのとエネルギーと自信を失ったのだろうね。書くことも、演奏と同じように、技術と経験と、知識と、体力(気力)が必要なのだった。

 

現に、こうして字数の多い雄弁な文を書けるのも、その言葉のストックを一時的に少しばかりお借りして取り戻したため。

 

自分は楽器は多少できても、言葉のプロフェッショナルではない。だから、より豊かな言葉を使いたいのであれば、優れた作品に触れて記憶に残って残った言葉や文法を借りてくる。それを何度も使ってもなお自分に残った言葉が、ようやく自分自身のものとして定着していくのだと思った。

 

これから、よい文学作品をたくさん読もう。

そしてたくさん書こう。

後で思い立って実家で探したところ、やっぱりあった。

発行年をみると自分がちょうど受験の頃。20年以上前の本。

右が過去に買っていたもの。

全然記憶にないことから、買って読んだ気になっていたのかもしれないし、さらっと飛ばし読みしただけなのかもしれない。

読書する自分がかっこいい的な。

恥ずかしながら、見事なファッション読書の典型だ。

きっと譜面の読み方、練習の仕方も当時はその程度の雑なものだったということでもある。

そう考えると、同じ本を買ったことは必然であったし、振り返ってみると、少しは人間的に成長したのか。

 

いろんな意味で、点と点が繋がった。

 

 

 

もう一つ、新たな問題は、読んだものは訳本であること。

乱暴な言い方になると、カミュ本人の選んだ言葉ではなく、訳者である宮崎嶺男氏の言葉を貰ったという方が正しい。

別にこれが悪いということではなく、苦心の末の素晴らしい言葉や文章をいただいたと思う。

問題は。フランス語で読んでいない。

これはまだ散文だからまだ気にならないが、詩の訳本は悲劇だ。

五七五調のボードレール、ヴェルレーヌなど果たして存在するのか?

 

なので、さっそく原語のものを買って見た。

ただし、「ペスト」ではなく、

何度か読んだことのある「異邦人」。

 

昔は、(ファッション的な意味で)「幸福な死」のほうが好みだったが、こちらのほうがわずかながら読む可能性はある、と思い。

結局のところ、良くも悪くも、ファッションを動機としている自分の愚かさに、改めて気がついた。

 

ここで作った点は、果たしていつ繋がるのか?

 

 

 

 

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